弐蜂

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Publiko ne Japan - Aktivitete Sociale edhe Defrime - 21 Jan 2019 15:57 - 0

さて、ぶんぶりょうどう、ということばがある。
みちとして、ぶんか、ぶかは、それをもとめるところにある。
ぶんぶりょうどうは、たちばじたいをいう。
これをりょうりつするものは、もとめるぶぶんが、
まなぶことにおいて、よりごのみせず、どちらもまなぶもの。
しかも、まなびは、ちしきだけでなく、おこないや、こころ
がまえとしてみにつける。
このたちばには、みちとしてのとうたつてんはない。
つねに、じこじしんのみじゅくをしり、それが、まなぶこころ
となる。もとめれば、すべてが、そのためのおしえである。
すなわち、まなぶこころにたつ。

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Kame Sennin

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