弐蜂

Shogo - Gazete nga Japan -

Publiko ne Japan - Aktivitete Sociale edhe Defrime - 03 Mar 2019 22:11 - 0

かんしゃのこころは、なにかきたいするところに、なにもない。
しかし、なんでもないところに、なにかあれば、それは、あり
がたいことにちがいない。おねんぶつするために、とくべつな
りゆうはいらない。なんでもないところに、おねんぶつしたい
とおもえば、それが、かんしゃのおねんぶつ。このよにいのち
をいただいてうまれてきたからには、なんでもないところに、
かんしゃのこころをおもいだす。なにごとかあれば、いのちの
さだめとしてのいきかたをこころえて、うけとめることに、そ
れいじょうのけっかをきたいするものではない。ものごとは、
すべて、このほしのめぐりあわせで、おじょうどへいたるいの
ちのさだめにあるもの。おねんぶつによって、かんしゃのきか
いを、そのばにいただく。とくべつなありがたいことをまって、
かんしゃするのは、ごりやくとしてのかんしゃ。もとより、こ
のめぐりあわせのなかで、つねにいのちのありかたとして、お
ねんぶつが、かんしゃのこころをあらわす。ほとけのごりやく
とおもって、とくべつなかんしゃでおねんぶつすれば、ここに、
おじょうどへいたるめぐりあわせを、いのちのさだめのうんめ
いとして、うけとめるところである。したがって、くろうや、
さいなんでも、これをなんでもないこととして、のりこえるの
が、ひとのどりょくのとうとさ。ほとけのおしえにささえられ
るところのどりょくは、これをなんでもないこととして、とう
ぜんのようにおじょうどへいたるこころざしがある。いのちの
さだめは、ひとのみちをはずれないこころざしである。
このよにうまれたことから、ごりやくにあずかり、これをじか
くするところに、すでにおしえがある。みちゆけばおじょうど。
まよいも、であいもあり。すでに、さとりあって、かならず、
まよいをはらす。であいこそ、とくべつなかんしゃをいたすべ
きところ。であいがあれば、しっかりと、しあわせをうけとめ
るために、とくべつなじょうけんはむよう。おねんぶつは、こ
ころあるところにまよいははれて、ともにおじょうどへいたる
みちしるべであると、よろこぶことができるものなり。

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