弐蜂

Shogo - Gazete nga Japan -

Publiko ne Japan - Aktivitete Sociale edhe Defrime - 08 Mar 2019 16:00 - 0

ここまでかいてみて、ここで、もっともかんじんなことを
かんたんに、いえるとおもう。
つまり、おねんぶつとは、てをあわせてがっしょうして、
くちにほとけのおなまえをとなえること。これは、しょう
みょうねんぶつである。
これにて、ほとけをらいはいする。いつでも、どこでも、
しょうみょうねんぶつすることで、ほとけをらいはいする
ことができる。とくにごほんぞんのまえでは、しょうごん
さほうにて、おじょうどへのおうじょうをいのる。
がんらい、おねんぶつは、ほとけのねがいである。すべて
のひとびとをすくうために、ほとけさまが、だれにでもで
きるおねんぶつとして、これをおじょうどへおうじょうす
るためのぎょうとして、じょうじゅされた。だれでも、お
ねんぶつすれば、かならずおじょうどへ、おうじょうでき
るというちかいをたてて、ながいしゅぎょうのはてに、ご
じしんが、おじょうどのナムアミダブツとなって、ちかい
のとおりに、おねんぶつのぎょうをたてた。
だれでも、いきているあいだに、おねんぶつすれば、たち
まちにおじょうどへ、うまれるみとなる。ここで、じぶん
のこころに、このことをしんじるのを、しんじんという。
だれにでも、こころには、ぶっしょうがあって、ほとけの
ごえんをさずかり、おしえにみちびかれていきるというこ
とがあり、ぜひ、おねんぶつしていただきたいというねが
いがある。しかし、かりに、これをしないでもよいという
のは、ときにほとけをうたがってあらそいになるぐらいな
らば、むりにおすすめしないといういみである。

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