弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 10 Feb 2019 23:40 - 0

ぶっきょうにおけるれきしてきてんかいは、あらゆるしゃかい
もんだいを、ほうわとしてひろいあつめるなかにあるひとつの
れきしである。ここには、ほとけのしゅたいてききゅうさいを
ちゅうしんとした、かいけつのじくがある。どのじだいにも、
ほとけのしゅたいせいと、ひとのこころと、おしえにあかされ
るしんじんにおいて、きゅうさいをさいしゅうてきけつろんと
するしゃかいもんだいへのいっかんしたとりくみによって、こ
れが、インドのしゃかいをかいほうし、そこから、たいりくと
してのことばのかべをちゅうごくのきゅうどうのせいしんがの
りこえ、さらににほんにて、げんだいのとうざいのぶんめいの
かべをこくふくしようとする。なお、これは、じんるいきょう
つうのこころのもんだいとしてのぜんあくのきほんと、かこの
しゅくぜん、そしてみらいへのえいえんのテーマであるへいわ
のちつじょとしてのかだいが、せかいのこんぽんげんりといえ
るきょうつうのげんじつのテーマとしてまとめあがる。
じんるいはここにひとつになることで、こんご、なんぜんねん
ものみらいまでつながる、しんじつのみちを、いままさにきり
ひらくものである。すなわち、このしゃかいもんだいが、うち
ゅうであれ、あのよであっても、なんらまもるべきようなウソ
はなく、なんらアクとしてもちだすべきハジもない。
しんじることで、ひとつとなり、かならずやすべてをうけとめ
るこころざしを、いまにこそほこるものである。

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