弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 15 Feb 2019 22:02 - 0

インターネットというきょうゆうスペースにおいて、いかに、
しょうひんや、じょうほうが、まもれるか。
これには、じぶんのものと、たにんのものと、どうくべつし、
かんりするか。インターネットじたいが、きょうゆうスペー
であるから、これは、しゃかいじょうしきよりも、もっと、
ほんしつてきなしてんから、しょうひんや、じょうほうなど、
これじたいをまもるというもくてきいしきがひつよう。
そういうかんりシステムのなかで、これらをきちょうなコン
テンツとして、みんなであつかう。たにんのつごうではなく、
おなじなかまとして、これらをまもるのは、はたしてだれが、
それを、まもれるかということ。むしろ、ここにあらそいは
むよう。ぎゃくに、なんであれ、あらそいこそが、コンテン
ツをおびやかす。
インターネットを、きょうゆうスぺースとして、ふとくてい
たすうがりようできるには、コンテンツにたいしきょうつう
りかいをもとめるいがいにない。それぞれの、じぶんのじこ
せきにんのはんだんが、あらそいのけっかではなくて、かな
らず、たがいにそうごりかいをもくてきとするものとしての
ぜんていが、ここになくてはならない。
きょうゆうスペースのコンテンツをじぶんのものであるから
というりゆうだけでは、かってにできない。そもそも、アッ
プロードじたいが、そうごりかいをもくてきとしたものであ
り、きょうゆうスペースのかつようもまた、かならず、こう
りゅうをもたらす。ただ、コンテンツをまもるためならば、
なんら、こじんがじぶんかってをするひつようもない。だれ
もがあんぜんに、こうりゅうをはたすためにインターネット
のりべんせいはふへんてきで、びょうどうである。このうえ
で、このじじつをおびやかすことなく、じぶんのつごうにあ
わせて、りようがかのうである。

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