弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 26 Feb 2019 21:25 - 0

いのちのくにであるにほん。
はいせんをおえて、バブルをけいけんし、どうめいをまもる。
これは、にんげんでいえば、しをのりこえたことにひとしい。
なぜなら、たちばをうしなう、ちからをうしなう、だが、く
にとしてのかたちをまもる。これについて、いのちのくにと
してかんがえれば、なっとくをかんじる。くには、どこでも
そのようだが、たこくにまさるちからや、はつげんりょくを
もつたちばなど、つねにくにとしてそなえるところがあれば、
いのちのありかたまでみえてこない。くにのいのちとして、
いのちをみつめて、いのちをかんじるところに、かならずし
も、たこくにまさらず、はつげんりょくよりも、これをうけ
とめるたちばから、いきるちからをうしなっても、くにとし
てのかたちが、いのちそのものであるとみえる。そういった
いのちをうけとめたくにとしてのたちばからみえてくるのは、
くにのしょうらいが、まるでいのちをひていするようなかこ
のあやまちをみつめて、みらいには、おなじ、くにのかたち
としてのいのちを、きょうりょくのかんけいが、このちから
をやしなっていくといったとうぜんのすがたが、うけとめら
れる。たしかに、くにとしてみたときに、そこにかならず、
いのちのみらいがそんざいすることを、きょうりょくのかん
けいでうけとめるいがいにないということが、くにと、くに
のしんらいかんけいである。したがって、すべてのくにのみ
らいをしんじることが、くにとしてのびょうどうで、たいと
うな、こくさいしゃかいのなりたちをいみするということが
いえる。
いのちのくにであるにほん。にほんからは、すべてのくにが、
おなじ、いのちのくにであることがみえる。ここに、みらい
をしんじるちからが、こくみんのしあわせとしていきる、お
なじ、たこくのすがたをねがう。なむあみだぶつ

Support

Comments (0)