Published in Japan - Social interactions and entertainment - 02 Mar 2019 22:01 - 1
ちきゅうをまわすということは、きがつけば、どのどうぶつも
やっている。このために、しんかをとげたとおもえるほど。こ
れは、にんげんならば、じぶんひとりでできる。これが、ここ
ろのもんだいと、マナーのもんだいである。これが、かんがえ
てもいなかったというのは、そのときだけのりゆうである。ま
ずは、じかくをもつところからはじまる。ここがもっともじゅ
うようであって、うまい、へたについては、にんげんにとって、
あまりじゅうようではない。ひとは、これが、こころや、げん
どうのじかくにおけるじぶんのいきかたをかんがえることとお
なじであるから。ときに、ほうりつのさばきや、じこなどのさ
いなんで、にんげんどうしがかいけつすべきもんだいがあり、
あらそわず、へいわをまもるというじゅうようなかんてんがあ
る。ひとはぶんめいがまるごとへいわであれば、ひとりひとり
のせきにんは、これについて、じぶんのもんだいいしきのなか
でみていくのであって、これについて、たしゃのやりかたをと
うものではない。さまざまなかんがえが、へいわのなかでこそ、
いかされる。これはじかくがあればこそ、それぞれのやりかた
としてのはたらきとなる。あらそいは、ぶんめいだけでなく、
ちきゅうのれきしにおいて、きずとなる。
いわばどうぶつたちも、しんかをじぶんのせきにんとしてひき
うけ、しゅぞくとしてのせきにんがおおきく、ほかのどうぶつ
のやりかたまでは、せきにんをもたない。つまり、むようなあ
らそいをさける。ひとつのどうぶつとしてのこうどうは、しゅ
ぞくのいきかたをまもれば、そこでじこせきにんがなる。つま
り、なんであれ、じぶんのもんだいであり、そのこたえとして
のはたらきとなる。
にんげんもそうであるが、へいわのありかたについて、かんが
えるとき、いくつかのへいわのかたちがあり、これをじぶんで
ひきうけるところに、じぶんのいきかたが、みえてくる。
こういうふうにかんがえれば、へいわとは、ちきゅうのかたち
であるといえる。つまり、たいらなわ、としてのほしのすがた。
たいようならば、おおきなほのうのひかり、としてのたいよう
のかたちが、このたいようにおけるへいわのいみになるとして、
かんがえることができる。
いのちあるものどうし、ほしからさずかったいのちのいきかた
で、あらそうことはできないもの。じぶんで、なにができるか
かんがえるところから、すでにはじまっているといえる。
ちなみに、しゅうきょうはどれもが、このじかくがなくても、
そのせいしんにおいて、どれもがむじゅんせず、そのどうりが
あるといえるところにある。なぜならば、にんげんをこえたそ
んざい、しかも、じぶんじしんをこえたそんざいをしんじると
ころであるから。しんじるということは、そうしてなりたつこ
ころのはたらきである。
ちきゅうがまわっているということを、じぶんでどのようにい
しきするかということは、みえてくるところでかんがえる、あ
るいは、かんがえるところでみえてくるものである。
ときに、じごうじとくというところにつみがある。ここに、ほ
うりついぜんのつみがある。つまり、じかくというところにお
いて、ただすべきつみである。これについて、つみをじかくし
てこそ、すくわれるというしゅうきょうのたちばがある。
しんじるこころは、これじたいがもちろんじゅうようだが、つ
みのじかくがなければ、じごうじとくにおいて、くるしみをう
ける。じぶんで、じぶんのつみをいしきするところにこそ、か
いけつがみえるつみがある。おしえはじかくをうながし、つみ
をひきうけてあらそわず、わとしてのびょうどうがかんけいし
てすくわれる。ここに、じんせいがみちとなる。
やっている。このために、しんかをとげたとおもえるほど。こ
れは、にんげんならば、じぶんひとりでできる。これが、ここ
ろのもんだいと、マナーのもんだいである。これが、かんがえ
てもいなかったというのは、そのときだけのりゆうである。ま
ずは、じかくをもつところからはじまる。ここがもっともじゅ
うようであって、うまい、へたについては、にんげんにとって、
あまりじゅうようではない。ひとは、これが、こころや、げん
どうのじかくにおけるじぶんのいきかたをかんがえることとお
なじであるから。ときに、ほうりつのさばきや、じこなどのさ
いなんで、にんげんどうしがかいけつすべきもんだいがあり、
あらそわず、へいわをまもるというじゅうようなかんてんがあ
る。ひとはぶんめいがまるごとへいわであれば、ひとりひとり
のせきにんは、これについて、じぶんのもんだいいしきのなか
でみていくのであって、これについて、たしゃのやりかたをと
うものではない。さまざまなかんがえが、へいわのなかでこそ、
いかされる。これはじかくがあればこそ、それぞれのやりかた
としてのはたらきとなる。あらそいは、ぶんめいだけでなく、
ちきゅうのれきしにおいて、きずとなる。
いわばどうぶつたちも、しんかをじぶんのせきにんとしてひき
うけ、しゅぞくとしてのせきにんがおおきく、ほかのどうぶつ
のやりかたまでは、せきにんをもたない。つまり、むようなあ
らそいをさける。ひとつのどうぶつとしてのこうどうは、しゅ
ぞくのいきかたをまもれば、そこでじこせきにんがなる。つま
り、なんであれ、じぶんのもんだいであり、そのこたえとして
のはたらきとなる。
にんげんもそうであるが、へいわのありかたについて、かんが
えるとき、いくつかのへいわのかたちがあり、これをじぶんで
ひきうけるところに、じぶんのいきかたが、みえてくる。
こういうふうにかんがえれば、へいわとは、ちきゅうのかたち
であるといえる。つまり、たいらなわ、としてのほしのすがた。
たいようならば、おおきなほのうのひかり、としてのたいよう
のかたちが、このたいようにおけるへいわのいみになるとして、
かんがえることができる。
いのちあるものどうし、ほしからさずかったいのちのいきかた
で、あらそうことはできないもの。じぶんで、なにができるか
かんがえるところから、すでにはじまっているといえる。
ちなみに、しゅうきょうはどれもが、このじかくがなくても、
そのせいしんにおいて、どれもがむじゅんせず、そのどうりが
あるといえるところにある。なぜならば、にんげんをこえたそ
んざい、しかも、じぶんじしんをこえたそんざいをしんじると
ころであるから。しんじるということは、そうしてなりたつこ
ころのはたらきである。
ちきゅうがまわっているということを、じぶんでどのようにい
しきするかということは、みえてくるところでかんがえる、あ
るいは、かんがえるところでみえてくるものである。
ときに、じごうじとくというところにつみがある。ここに、ほ
うりついぜんのつみがある。つまり、じかくというところにお
いて、ただすべきつみである。これについて、つみをじかくし
てこそ、すくわれるというしゅうきょうのたちばがある。
しんじるこころは、これじたいがもちろんじゅうようだが、つ
みのじかくがなければ、じごうじとくにおいて、くるしみをう
ける。じぶんで、じぶんのつみをいしきするところにこそ、か
いけつがみえるつみがある。おしえはじかくをうながし、つみ
をひきうけてあらそわず、わとしてのびょうどうがかんけいし
てすくわれる。ここに、じんせいがみちとなる。
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