弐蜂

Shogo - Jornal de Japan -

Publicado em Japan - Entreterimento e interações sociais - 15 Feb 2019 20:22 - 0

ものごとは、けっかとしてみたとき、かならず、なっとく
できるところがある。つまり、あるとき、なにかあれば、
そこには、かならず、いんがかんけいがある。ふかかいな
ことでも、そのことだけがとくべつなできごとではなく、
なにかげんいんがあって、しかもさまざまないんねんから
きいんするひつぜんせいがある。それがふかかいにおもえ
ても、ものごとにはふじょうりはない。かならず、いんが
かんけいのどうりにもとづく。

これが、ひとのかんがえをこえた、おもいはからいがおよ
ばぬところでいえば、むしろ、そのいんがと、いんねんの
かんけいによって、ものごとがすべてつながっていること。
なぜそうであるかということが、にょらいのだいひえこう
によってつながっている。したがって、なにものであって
も、じぶんのかってができることはない。ものごとは、す
べてが、にょらいえこうのごりやくのうちなるつながりが
あって、だれでも、そのなかにいきている。
これは、じぶんのかんじょうや、せけんのじょうしきや、
かちかんなどによって、ひとには、どうしてもわからない
ところである。
しかし、わからなくても、すべてのつながりがあっていき
ているということをしんじる。そして、あるとき、なにか
ふかかいで、ふじょうりであるとおもえても、それもまた、
かならずや、にょらいのおぼしめしであるとしてうけとめ
る。かりに、わわるいことで、ゆるしがたくても、それが、
じょうしきてきかちかんの、かってなかんじょうにすぎな
くて、しかも、おなじおもいのひとがおおくても、そもそ
も、すべては、ひとのかちかんをこえた、にょらいのおぼ
しめしにかなうこととおもえば、がんらい、ひとは、なに
ごともかってなことばかりなげんどうであるとおもいかえ
し、ならば、とくにつごうのわるいそのことだけを、かい
けつしようとせすに、ひとのかんがえをこえたせかいから
のにょらいのねがいであるにんげんきゅうさいのおぼしめ
しにかなうならば、いかにひとのかんじょうをおさえて、
ゆるしあえるかということが、ほんとうのかだいである。

ひとにはわからないせかいがあるのだから、ひとがひとを
さばくのでなく、ゆるしあうことがひとをふじょうりから
すくう。わからずにいきどおりがあっても、わからぬまま
ににょらいのはたらきをしんじて、ほとけをおがめば、た
がいをみとめあうことができる。つまり、じぶんのかって
なかんじょうをおさめることができる。いかにおもいけい
ばつでも、ただしいはんけつでも、それによって、ひとが
すくわれるわけではない。にんげんをこえたそんざいであ
るかみやほとけを、ともにしんじるところにすくわれるし
かない。ほうりつやじょうしきは、しゃかいちつじょのた
めにあるものでしかない。これが、しょうらいのなにかを
やくそくするものではない。おなじまちのちつじょをまも
るだけで、じだいごとに、くにごとにやがてかわっていく。
けっして、ぜんにんがらくをするためではない。ぜんあく
にてっするものは、かみやほとけである。ひとはみずから
のあやまちにきづけない。だから、それがわかるように、
ほうりつや、しゅうきょうがある。それぞれ、たがいに、
たちばがかわれば、こまるようなことではなく、いつのじ
だいでも、どこでも、だれでも、にんげんとして、ともに
しんじてすくわれるところのしんじつのおしえは、いかに
ひととひとが、たがいにしんじることができるか、という
ことである。つごうがわるいときでも、かんじょうてきな
ときでも、このつごうやかんじょうをすてるのではない。
わからないことを、わかってすくわれるのではない。しん
じるだけで、すくわれるのは、にんげんをこえたせかいの
しんじつとしてのしゅうきょうのたちばにある。
じしんのきゅうさいが、いつでも、どこでも、だれでも、
おなじく、ひとしくこころのねがいである。ここにたちか
えり、けっしてさばくのがけつろんではなく、すくわれる
のが、ひとのさいしゅうけつろんである。このたちばは、
たちばをこえた、ひとのすがたのしんじつである。

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