弐蜂

Shogo - Jornal de Japan -

Publicado em Japan - Entreterimento e interações sociais - 23 Feb 2019 03:57 - 0

ながねん、にほんをくるしめたげんしょうの「はんにん」は、どうやら、
ミミズであるよう。しかも、「ハイビジョン」におこったらしい。

つまり、たしかに、ミミズに「め」はないが、ミミズにいわせれば、い
わゆる、ハイビジョンとは、ていビジョンのことである。それぐらいの
ことばのいみはわかる。しかし、めのないミミズをだますために、てい
がしつを、あえてハイビジョンといっているだろう、と。それいがいに
ハイビジョンにこだわるりゆうはなにか?まさか、あのたんちょうな、
ていがしつのえいぞうを、ほんとうに、ぎじゅつりょくとしてしんじて
いるのか?じつは、ミミズは、めのみえるひとよりも、もっとおおくの
いろんなことがみえるのだ。それをしんじようとしないし、りかいしよ
うともしなければ、ハイビジョンがわからないのではないだろうか。め
にみえるものばかりしんじているものだから、あたかも、みやすいから、
しかも、だいがめんにてきしているからといって、これをぎじゅつりょ
くのたかさであると、かんちがいしているのかもしれない。とにかく、
じめんをアスファルトでうめつくすようなことは、だいめいわくであり、
そもそも、まったくあんぜんとはかんけいない。これがはたして、どの
ようなけつまつをもたらすかを、ミミズがまえもってえんしゅつした。
だが、これはあくまで、にんげんのじごうじとくのみらいとして、りか
いするべきである。
すなわち、じしん、もうしょ、きょだいアメーバのはんしょく、げんい
んふめいのひふびょう、おおあめこうずいにだいひょうされるいじょう
げんしょうは、これにそうとうする。
それだけではなく、とうぜんながら、ミミズのきもちにどうちょうする
しぜんかいでは、ほんとうのハルマゲドンが、かいしされた。にんげん
は、ぶきをつかわずに、ひっしにきょうそうしているつもりだが、その
げんいんは、サルやゾウ、ウシをちゅうしんとした、どうぶつぐんだん
である。これに、トリがさんかしたことで、さいしゅうせんそうとなっ
た。せいかくには、ぶきをつかわせてもらえないひとのたちばがある。
これは、すうひゃくねんもむかしからけいかくされたことであり、さい
しょは、にんげんのじかくをうながすためであったが、ゴミもんだいや
アスファルトもんだいが、みなおされることがないまま、じたいは、ぜ
んめんせんそうというかたちになった。
つまり、にんげんが、みずからのかんきょうはかいでほろびても、どう
ぶつたちはいきのこり、しぜんをまもるというおもわくでいっちしてい
る。にんげんのなかには、これをのりこえるものもいるだろうが、かん
きょうのへんかをまえだおしにすることで、どうしても、しぜんかいの
いちいんにかえることになるだろう。かんきょうのへんかは、じつに、
ほしのめんえきりょくのようにさようして、うみや、かわや、だいちを
まもるもの。そこで、たいきのやくわりは、まさにしぜんのとうたであ
る。じぶんのどりょくがかなえば、たいきをうけいれていきのこるが、
しぜんのがいとなるものは、ほろびるしかない。
なぜ、とくにミミズが「はんにん」であるかは、ねんどうりきにある。
ちきゅうにおいてはこれは、ミミズのじゆうじざいであり、ただ、ひと
のかってをゆるすわけにいかないところで、せいぎにより、たちあがっ
たもの。びしんどうや、いどう、しゅうだんこうどうなどで、ほしぜん
たいをあやつることができるが、あくまでも、たいきをまもるため。
ひとは、かんきょうはかいのじかくをもって、これをやめるために、ま
いにちのどりょくをするべきであるが、しぜんかんきょうのめんえきさ
ようは、けっしてとめられない。いまあるすべてのどうぶつは、これを
いきのこるために、すでにだんけつしており、かんきょうのへんかがは
やまったことで、おおくのどうぶつがいきのこるだろう。すくなくとも、
たいきがまもられることにかわりはない。

ひとつちゅういすべきは、どうぶつは、ひとをだませる。むしや、しょ
くぶつもそうである。なにせ、ひとの「め」をだます。ひとのかんがえ
をよみとれば、ほんのうによって、かんたんにだませる。しかも、だま
しかたは、いのちのかずほど、たくさんある。
ハルマゲドンをしのぐには、どうぶつたちにかつよりも、しぜんかんき
ょうをまもるためのひびのどりょくが、かえってみずからをたすけると
さとるべきなり。

ノストラダムスのよげんは、たしかに、これをふせぐためであったかも
しれないが、しかしそれよりも、このじょうたいにあることのじかくを
もつことで、どうぶつとして、しぜんかいにかえるべきじかくをうなが
す。そうでなければ、ただほろびるだけ。
だれが、ひとのうそをみぬき、これをやぶるか?ほかでもなく、にんげ
んじしんが、これをやらねば、ぎじゅつりょくで、みらいにいきのこっ
ても、にんげんにとって、さらにつらいじょうきょうがまちうけるだろ
う。それよりも、しぜんかいのいちいんとして、ほかのどうぶつたちと
ともに、おなじみらいへむかうべきである。
すでに、じんるいたんじょういらいずっと、おなじくうきをまもり、と
もにこれをはぐくんできた。だがそれが、うぬぼれと、かんちがいから、
かんきょうはかいのつみをせおい、じごくのくるしみをうけているが、
このうえさらに、みらいまでうしなうことはできない。しかし、どうぶ
つたちもまた、ひとのかのうせいをしんじている。みらいにもこのほし
に、ひとのちからが、ひつようである。それは、ひとのしゅうきょうが、
どうぶつたちのこころまでをも、すくったあかしである。
こんどこそ、ほんとうの、せいかいを、えらびとるのだ。すべてのせい
めいにとって、しあわせは、おなじである。つまり、こころは、ひとつ
である。そして、むかしも、いまも、このほしのたいきは、おなじであ
るということだ。これは、みらいもおなじである。このしあわせについ
て、しゅうきょうがおしえてくれた。すなわち、しあわせは、おなじ。
にんげんも、おなじしあわせにめざめて、じぶんのまちがいを、ただす
ゆうきをもつべきである。
ほしにうまれて、ほしにかえるべきなり。いまも、みらいも、これまで
のように。ぎじゅつは、ほしをまもるためにあるといえる。なんとして
も、このほしのためにいきるべきである。うちゅうは、けっして、にげ
ばではなく、チャレンジのばである。なによりも、ちきゅうのいちいん
であるべきなり。

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