Publicado em Japan - Entreterimento e interações sociais - 13 Mar 2019 01:24 - 0
ねんぶつは、むじょうけんのすくいである。ではなぜ、きゅうどう、つまり
みちをもとめるものとしてのまなびが、ひつようであるか。
にんげんかんけいでは、ときに、しらなければしかたがないとして、しつれ
いやあやまちを、ゆるされることがある。だが、ぎゃくに、これが、まなぶ
べきりゆう。むしろ、じはつてきに、そっせんして、じょうしきや、マナー
をまなぶことで、しつれいや、あやまちをふせぐことにつながる。これが、
もし、あえてまなばなければ、かならずや、しつれいやあやまちをおこす。
ぶっきょうもおなじである。しょうどうもんが、ひつようとされるたちばは、
にんげんせいをきわめるところにある。
じだいや、ばしょがかわれば、しゃかいのじょうしきもかわる。したがって、
ひつようなちしきや、マナーもちがってくるが、ここで、にんげんせいをき
わめるたちばでの、しょうどうもんのおしえがかかせない。つまり、このお
しえは、にんげんとしてのきょうつうのしんりをもとめることにおいてしゅ
ぎょうがある。これは、さとりのことであるが、さとりはむしろまよいなき
ほとけのさとりであって、これをおしえとしてしゅぎょうする。いわば、ひ
とが、ほんとうになにをまなぶべきかを、えらびだしたところにあるのが、
しょうどうもんである。じだいやばしょをこえて、にんげんとしてのきょう
つうのしんりをついきゅうするところにある。これこそ、ちしきやじょうし
きをこえた、にんげんとしてのがくもんである。しかも、2500ねんまえ
から、いままで、よのなかをみちびいてきた。
これが、しらなければゆるされるたちばがあって、あえてこれにこだわれば、
かならずゆるされるとかんがえるのは、にんげんのぼんのうをきわめようと
するふかいまよいである。このにんげんとしてのふかいまよいを、げだつす
るところにしょうどうもんがある。すなわち、にんげんにとって、どりょく
にあたいする、もとめるべきみちとしての、しんりのたいとくである。あや
まちを、あやまちとしてみとめるところから、じぶんのたちばがある。
じょうどしんしゅうでは、それこそ、ねんぶつのありがたさや、ほとけのむ
じょうけんのすくいなど、これじたいが、おしえをきいてこそ、わかること。
ねんぶつによってすくわれるおなじにんげんとしてのあるがままのにんげん
せいをまなぶなかで、こころのしんじんがじかくされ、じぶんじしんのおろ
かさを、じぶんでたしなめるじぶんらしさのすくいがある。たしゃをさばく
よりも、ともにねんぶつにすくわれるところで、じだいやばしょをこえた、
きゅうさいのしんじつをまなぶ。たしかに、まなびのうむにかかわらず、す
くわれることだが、これは、ほとけのじひをぜんていとしたきゅうさいであ
って、にんげんせいをうしなうようなことではない。つまり、まなびをすて
たむなしいじんせいは、ぼんのうをきわめようとするふかいまよいである。
きょくたんにいえば、じごくでもねんぶつによってすくいがあり、これは、
じごくでもまなびがなるおしえだからであるといえる。つねにかんしゃのこ
ころでいきることができるにんげんせいを、じぶんのこころに、しんじんと
してさずかる。
ぶっきょうは、まなびがなくともすくわれるが、これは、ほとけのじひ。に
んげんは、まなびがなくてあらそう。まなびをすてるのはまよいから。まよ
いは、まなびをやめれば、あらそいをまつばかり。だれでも、あらそいをは
なれて、ほんらいのにんげんせいをいただくところに、ほとけのねがいがあ
る。かりに、じごくにゆくのはひとのかってだが、ほとけはけっして、ひと
をみすてず。ひとはときにきゅうどうのこころざしから、おしえをありがた
くいただいて、ともにすくわれるために、たとえじごくにおちても、たしゃ
をうらまず、これをほんもうとする。これは、しかし、ぼんのうのまよいを
きわめるにあらず、ほとけのきゅうさいのしんじつをうけとめるならばこそ。
じんせいは、みちとしてすでにおしえがあり、きゅうさいをねがうばかり。
みちをもとめるものとしてのまなびが、ひつようであるか。
にんげんかんけいでは、ときに、しらなければしかたがないとして、しつれ
いやあやまちを、ゆるされることがある。だが、ぎゃくに、これが、まなぶ
べきりゆう。むしろ、じはつてきに、そっせんして、じょうしきや、マナー
をまなぶことで、しつれいや、あやまちをふせぐことにつながる。これが、
もし、あえてまなばなければ、かならずや、しつれいやあやまちをおこす。
ぶっきょうもおなじである。しょうどうもんが、ひつようとされるたちばは、
にんげんせいをきわめるところにある。
じだいや、ばしょがかわれば、しゃかいのじょうしきもかわる。したがって、
ひつようなちしきや、マナーもちがってくるが、ここで、にんげんせいをき
わめるたちばでの、しょうどうもんのおしえがかかせない。つまり、このお
しえは、にんげんとしてのきょうつうのしんりをもとめることにおいてしゅ
ぎょうがある。これは、さとりのことであるが、さとりはむしろまよいなき
ほとけのさとりであって、これをおしえとしてしゅぎょうする。いわば、ひ
とが、ほんとうになにをまなぶべきかを、えらびだしたところにあるのが、
しょうどうもんである。じだいやばしょをこえて、にんげんとしてのきょう
つうのしんりをついきゅうするところにある。これこそ、ちしきやじょうし
きをこえた、にんげんとしてのがくもんである。しかも、2500ねんまえ
から、いままで、よのなかをみちびいてきた。
これが、しらなければゆるされるたちばがあって、あえてこれにこだわれば、
かならずゆるされるとかんがえるのは、にんげんのぼんのうをきわめようと
するふかいまよいである。このにんげんとしてのふかいまよいを、げだつす
るところにしょうどうもんがある。すなわち、にんげんにとって、どりょく
にあたいする、もとめるべきみちとしての、しんりのたいとくである。あや
まちを、あやまちとしてみとめるところから、じぶんのたちばがある。
じょうどしんしゅうでは、それこそ、ねんぶつのありがたさや、ほとけのむ
じょうけんのすくいなど、これじたいが、おしえをきいてこそ、わかること。
ねんぶつによってすくわれるおなじにんげんとしてのあるがままのにんげん
せいをまなぶなかで、こころのしんじんがじかくされ、じぶんじしんのおろ
かさを、じぶんでたしなめるじぶんらしさのすくいがある。たしゃをさばく
よりも、ともにねんぶつにすくわれるところで、じだいやばしょをこえた、
きゅうさいのしんじつをまなぶ。たしかに、まなびのうむにかかわらず、す
くわれることだが、これは、ほとけのじひをぜんていとしたきゅうさいであ
って、にんげんせいをうしなうようなことではない。つまり、まなびをすて
たむなしいじんせいは、ぼんのうをきわめようとするふかいまよいである。
きょくたんにいえば、じごくでもねんぶつによってすくいがあり、これは、
じごくでもまなびがなるおしえだからであるといえる。つねにかんしゃのこ
ころでいきることができるにんげんせいを、じぶんのこころに、しんじんと
してさずかる。
ぶっきょうは、まなびがなくともすくわれるが、これは、ほとけのじひ。に
んげんは、まなびがなくてあらそう。まなびをすてるのはまよいから。まよ
いは、まなびをやめれば、あらそいをまつばかり。だれでも、あらそいをは
なれて、ほんらいのにんげんせいをいただくところに、ほとけのねがいがあ
る。かりに、じごくにゆくのはひとのかってだが、ほとけはけっして、ひと
をみすてず。ひとはときにきゅうどうのこころざしから、おしえをありがた
くいただいて、ともにすくわれるために、たとえじごくにおちても、たしゃ
をうらまず、これをほんもうとする。これは、しかし、ぼんのうのまよいを
きわめるにあらず、ほとけのきゅうさいのしんじつをうけとめるならばこそ。
じんせいは、みちとしてすでにおしえがあり、きゅうさいをねがうばかり。
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