弐蜂

Shogo - Časopis iz Japan -

Objavljen v Japan - Družbeni stiki in zabava - 17 Jan 2019 03:56 - 0

けっして、くすりやけんじゅうは、しゅうきょうではない。では、
なぜじゅうじかやぶつぞうがしんこうされ、しゅうきょうなのか。
それは、しんじつがそこにあるから。しかも、こころのしんじつ。

くすりやけんじゅうがどうぐとして、そのもくてきが、しごとと
してのもくてき。つまり、おかねとせいかつ。これらをあつかう
ひとのこころには、しごといじょう、せいかついじょうのいのち
のせかいのつながりがひつよう。いのちおわっても、いのちあっ
ても、つねにひとびとをすくうせかい。つらいとき、しあわせな
とき、ねむいとき、ひまなとき、つねにこころをすくう。それが
しんじつ。
あらそいと、じごくからひとびとをまもる。まよいと、くのうか
らひとびとをまもる。かみとほとけは、せかいをまもり、こころ
をすくい、あのよでいのちをむかえてくれる。

かみやほとけのしんこうにより、ぼくたちは、しごとのどうぐや
しょくじのあんぜんをりそうとして、たがいにきょうりょくする
ことができる。
あしたもまた、しんぶつにむかうときの、みなのえがおやこえを
たのしみにして、きょういちにちのどりょくをふりかえる。
おやすみ。また、あした。ゆっくりと。

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