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弐蜂

Shogo - Časopis iz Japan -

Objavljen v Japan - Družbeni stiki in zabava - 17 Jan 2019 05:09 - 0

ときに、くるしみをひきうけて、しをえらぶものがいる。

いつも、せけんのどこへいっても、はずかしくないものが、
きゅうに、すべてがはずかしくなる。
たにんにせっきょうされるよりも、わがみのくるしさが、
じぶんをとがめているようで、むしろうけいれてしまう。
そんなふうに、じぶんのすべてをおえてしまうことがある。

しかし、だれにでも、にたようなことがある。たしかに、
しかってくれるものがいて、しあわせである。だが、みず
からしをえらぶことは、けっしてはずかしいことではない。
ぎゃくに、だれも、かれをたすけてやれないことが、にん
げんとしてはずかしく、ざんねん。
しんぶつをねがえばこそ、いのちおえて、かえるせかいが
おなじしんじつのせかいだから、とおくはなれてもこころ
はひとつだとしんじて、かれとおなじようにじぶんもすく
われることをしんじる。きっとぼくもじぶんじしんのみの
くるしみのすべてをじぶんでさいごまでひきうけるにちが
いない。また、あえることをたのしみにして、いつでもあ
えるたのしみをしんぶつのまえでいのる。

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Kame Sennin

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