弐蜂

Shogo - Časopis iz Japan -

Objavljen v Japan - Družbeni stiki in zabava - 03 Feb 2019 18:31 - 0

ぼくがすむこまつのまちは、むかしから、しんしゅうおうこく
とよばれている。それは、かつて、しゅうそである、しんらん
しょうにんがひろめた、じょうどしんしゅうのおしえが、さま
ざまなたしゅうや、たはにも、ふかくしんとうしているから。

つまり、じょうどのしんしゅうとしてのしんじんが、こころの
おしえとしていただかれ、これが、しゅうはをこえて、おとな
やこども、だんじょをとわず、にちじょうのせいかつのなかで、
むかしからつねに、みんなをみちびいている。

とくに、にほんぶっきょうでは、しょうどうもんというたちば
のなかにも、しんじんがひとしくいただかれ、まさに、ざいけ
しょうどうもんといえるほど、じかいじりつと、たりきのしん
じんが、みんなのせいかつのぜんぱんでしゅぎょうとして、は
ぐくまれている。
じょうどしんしゅうのざいけぶっきょうでも、しょうどうもん
についてしたしみ、そのおしえがしんじんとして、せいかつの
なかにいきている。
ぼくのおてらでも、さまざまなたちばから、ごえんをいただい
て、いろんなおしえにあずかる。ぼくじしんも、このしんしゅ
うおうこくのくらしが、まいにちのたのしみであり、これから
も、ずっとかわらぬいきかたをしていきたい。

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