弐蜂

Shogo - Časopis iz Japan -

Objavljen v Japan - Družbeni stiki in zabava - 07 Feb 2019 18:32 - 0

じぶんたちできめたルールを、じぶんたちでやぶることは、
こらえることができない、おろかさである。

なぜならこれは、じぶんじしんを、かこへおきざりにする
ことで、みらいのじぶんを、うらぎることになる。つまり、
いまをみうしなうこと。これにより、みらいをみうしなう。

これは、くにのほうりつでもおなじこと。
いつまでも、かこのあやまちにくのうするのではなくて、
これを、いはんとしてみとめて、くいあらため、これにて、
げんぜんのじじつのくろうについて、みらいのじぶんのた
めのげんこんのかだいとして、ここに、ひととしてふさわ
しいくろうをえらびとる。

くにのルールを、こくみんとして、じぶんのこころにきめ
て、ここに、おなじルールにまもられた、おなじみらいを、
じぶんでえらびとることができる。ほうりつは、くにのみ
らいをしょうちょうするところの、ごせんぞからいただい
た、じんるいのたからである。これを、じぶんのこころに
きめて、みずからルールにしたがうことで、みらいをてに
する。
おなじルールのもとで、おなじみらいをえらびとれば、そ
こにこそ、しんじるべきなかまがいる。

ほとけさまは、すがたかたちは、ひとのめにみえないが、
ひかりそのものとして、しゃかいをてらす。ひかりとして、
こころのやみをはらう。みずからのまよいや、あやまちに、
じぶんでこだわるのではなく、じしんのいたるべきしょう
らいのじぶんのために、おなじルールにしたがって、これ
をまもるなかで、おしえをじぶんじしんのためにいただく
ことができる。
いわば、ほとけのひかりは、じっぽうびじん。これは、む
げん、むへんのひかり。こころに、おしえとして、うけと
めるためのひかりである。このこころざしがあるならば、
だれもがみな、びじんである。

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