Objavljen v Japan - Družbeni stiki in zabava - 24 Feb 2019 05:38 - 0
ねんぶつは、ひとのそんざいをよりどころとする。これは、がんらい、
ねんぶつとしてのじったいがない。ひとをすくうために、りかいふの
うなところで、じったいもなく、ただおしえとしてある。ゆえに、こ
れをひていすることは、いっぱんてきにいえば、むしろ、とうぜんで
あるといえる。これを、そんざいしない、ゆえにむいみであるとして
ひていするのが、ひとのじょうしきである。
では、ほとけとはなにか?なぜ、ひつようであるか?それを、かんが
えるのはだれか?
ここに、じつは、こたえがある。このとうぜんなぎもんのなかにこそ、
こたえがある。だれもがそのようにうたがってみるからこそ、ここに
むようで、むだなものであるとして、ひとつのこたえがでる。
ではほかに、おなじように、むようで、むだなものはなにか?これを
わかるのが、ひとのちえである。けつろんからいえば、ねんぶつは、
じつはひていされるためにある。だが、これにて、ひとはかならず、
むだをさとる。ゆえに、むようをみぬく。ねんぶつだけではなく、こ
のよには、むだなものと、ひつようなものがあるとわかる。これが、
ここに、あらそいこそが、じつのところ、むようであり、むだである
とみぬくのは、もくてきいしきのもんだいである。これを、けっかろ
んとして、かたるとき、あらそいこそは、けっかのみえない、むしろ、
けっかをみうしなうところに、ひつようせいをうったえるといえる。
つまり、なにか、どうしようもないげんじつは、けっかをみうしなっ
てこそ、きぼうがもてるとかんがえる。かのうせいは、どうなるかわ
からないところにこそ、しょうじるとおもう。あるとき、どうしよう
もないげんじつにたいして、あらそいは、じぶんのせいぎをつらぬく
とおもう。あいてをえらべば、そのあくをただし、せいぎをつらぬく。
なにかつごうのわるいことがあれば、わるいあいてをえらんで、じぶ
んのせいぎをつらぬいて、じぶんは、よいことをおもいどおりにやれ
るとかんがえる。ねんぶつなどは、よをたぶらかす。すなわち、むだ
にこだわり、むだをおしとおすことこそが、さいたるあくであると。
これが、ねんぶつのおしえがひきうけた、ひとのれきしてきなだんあ
つである。ねんぶつこそは、ひとのまよいをうけとめて、だんあつを
ひきうけるために、たてられたおしえである。ひとのまよいについて
は、ぶっきょうせいりつのときから、あきらかであり、とうじから、
いまでも、そのまよいはかわらない。それにたいして、ほとけとは、
そういったてきとしてのそんざいすら、なりたたないところにある。
わかるならば、なにもない。よをたぶらかすはずのほとけなどは、
つまるところ、どこにもない。どれだけひていしても、おなじである。
そして、そのうえで、ぶつどうというみちがあるとおしえる。これは、
ひとのいきかたである。もしも、わるいことがあって、わざわいをも
たらし、ふこうをまねくならば、これとあらそうのではなく、うけい
れるいきたかをおしえる。ひとにはそれができるとおしえる。これを
さとるところには、あらそいのよくをかなえたところに、しょうりし
ても、むなしさをのこす。しょうりのむなしさをさとる。おたからで
もないから、むだであるというのではなく、まほうでもないからむよ
うであるというのではなく、それは、じぶんのつごうや、よくぼうに
くらべて、かちがないだけ。じぶんのおもいどおりにやって、それで
もむなしさをさとるまで、しょうりして、ひとのまよいをきわめると
ころには、かならず、おねんぶつのおしえがある。じぶんのおもいど
おりやるよりも、ほとけさまをしんじることで、すくわれよ。なにも
ないからこそ、すくいがある。なにかあれば、それしかないが、なに
もなければ、まよいもいらない。よくこそはむないい。せいぎでも、
じょうしきでも、それは、しあわせのためではなく、それだけのいみ
があるだけ。なにもないところにこそ、しんじつがある。それを、ほ
とけとなづけて、おしえている。まよいをつくして、まよいをはなれ
るべし。まよいのむなしさをさとれば、あらそいこそは、もくてきす
らもありえない。そこに、わがみをむだにするだけ。
じぶんが、そこにどんないみをみつけるか?しょうりのむなしさか、
どりょくのさきにいみはなく、どりょくじたいにかちがあるならば、
そこに、すくいがあればこそ。しんじついがいに、なにもなければ、
しんじつがないのではなく、しんじつだけがある。そこに、しんじる
ということは、こころのあるがままのすがたとしるべし。うたがいと
は、にんげんらしさのまよいである。そのさきに、しんじつをみるべ
し。なにもないから、むだなのではなく、ほんとうになにもないなら
ば、しんじつだけがあるとみて、みちをゆくがごとし。だがそこには、
ねんぶつがあって、かならず、ひとのそんざいをよりどころとするい
がいにないねんぶつである。これをわかるところに、こころはあるが
ままのすがたとして、そのつながりのなかにたがいをしんじるだろう。
これを、こころのつながりとして、そこにほとけのこころがやどる。
ひとはだれもが、やがてかならず、みちにめざめて、これをさとるだ
ろう。
ねんぶつとしてのじったいがない。ひとをすくうために、りかいふの
うなところで、じったいもなく、ただおしえとしてある。ゆえに、こ
れをひていすることは、いっぱんてきにいえば、むしろ、とうぜんで
あるといえる。これを、そんざいしない、ゆえにむいみであるとして
ひていするのが、ひとのじょうしきである。
では、ほとけとはなにか?なぜ、ひつようであるか?それを、かんが
えるのはだれか?
ここに、じつは、こたえがある。このとうぜんなぎもんのなかにこそ、
こたえがある。だれもがそのようにうたがってみるからこそ、ここに
むようで、むだなものであるとして、ひとつのこたえがでる。
ではほかに、おなじように、むようで、むだなものはなにか?これを
わかるのが、ひとのちえである。けつろんからいえば、ねんぶつは、
じつはひていされるためにある。だが、これにて、ひとはかならず、
むだをさとる。ゆえに、むようをみぬく。ねんぶつだけではなく、こ
のよには、むだなものと、ひつようなものがあるとわかる。これが、
ここに、あらそいこそが、じつのところ、むようであり、むだである
とみぬくのは、もくてきいしきのもんだいである。これを、けっかろ
んとして、かたるとき、あらそいこそは、けっかのみえない、むしろ、
けっかをみうしなうところに、ひつようせいをうったえるといえる。
つまり、なにか、どうしようもないげんじつは、けっかをみうしなっ
てこそ、きぼうがもてるとかんがえる。かのうせいは、どうなるかわ
からないところにこそ、しょうじるとおもう。あるとき、どうしよう
もないげんじつにたいして、あらそいは、じぶんのせいぎをつらぬく
とおもう。あいてをえらべば、そのあくをただし、せいぎをつらぬく。
なにかつごうのわるいことがあれば、わるいあいてをえらんで、じぶ
んのせいぎをつらぬいて、じぶんは、よいことをおもいどおりにやれ
るとかんがえる。ねんぶつなどは、よをたぶらかす。すなわち、むだ
にこだわり、むだをおしとおすことこそが、さいたるあくであると。
これが、ねんぶつのおしえがひきうけた、ひとのれきしてきなだんあ
つである。ねんぶつこそは、ひとのまよいをうけとめて、だんあつを
ひきうけるために、たてられたおしえである。ひとのまよいについて
は、ぶっきょうせいりつのときから、あきらかであり、とうじから、
いまでも、そのまよいはかわらない。それにたいして、ほとけとは、
そういったてきとしてのそんざいすら、なりたたないところにある。
わかるならば、なにもない。よをたぶらかすはずのほとけなどは、
つまるところ、どこにもない。どれだけひていしても、おなじである。
そして、そのうえで、ぶつどうというみちがあるとおしえる。これは、
ひとのいきかたである。もしも、わるいことがあって、わざわいをも
たらし、ふこうをまねくならば、これとあらそうのではなく、うけい
れるいきたかをおしえる。ひとにはそれができるとおしえる。これを
さとるところには、あらそいのよくをかなえたところに、しょうりし
ても、むなしさをのこす。しょうりのむなしさをさとる。おたからで
もないから、むだであるというのではなく、まほうでもないからむよ
うであるというのではなく、それは、じぶんのつごうや、よくぼうに
くらべて、かちがないだけ。じぶんのおもいどおりにやって、それで
もむなしさをさとるまで、しょうりして、ひとのまよいをきわめると
ころには、かならず、おねんぶつのおしえがある。じぶんのおもいど
おりやるよりも、ほとけさまをしんじることで、すくわれよ。なにも
ないからこそ、すくいがある。なにかあれば、それしかないが、なに
もなければ、まよいもいらない。よくこそはむないい。せいぎでも、
じょうしきでも、それは、しあわせのためではなく、それだけのいみ
があるだけ。なにもないところにこそ、しんじつがある。それを、ほ
とけとなづけて、おしえている。まよいをつくして、まよいをはなれ
るべし。まよいのむなしさをさとれば、あらそいこそは、もくてきす
らもありえない。そこに、わがみをむだにするだけ。
じぶんが、そこにどんないみをみつけるか?しょうりのむなしさか、
どりょくのさきにいみはなく、どりょくじたいにかちがあるならば、
そこに、すくいがあればこそ。しんじついがいに、なにもなければ、
しんじつがないのではなく、しんじつだけがある。そこに、しんじる
ということは、こころのあるがままのすがたとしるべし。うたがいと
は、にんげんらしさのまよいである。そのさきに、しんじつをみるべ
し。なにもないから、むだなのではなく、ほんとうになにもないなら
ば、しんじつだけがあるとみて、みちをゆくがごとし。だがそこには、
ねんぶつがあって、かならず、ひとのそんざいをよりどころとするい
がいにないねんぶつである。これをわかるところに、こころはあるが
ままのすがたとして、そのつながりのなかにたがいをしんじるだろう。
これを、こころのつながりとして、そこにほとけのこころがやどる。
ひとはだれもが、やがてかならず、みちにめざめて、これをさとるだ
ろう。
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