弐蜂

Shogo - Časopis iz Japan -

Objavljen v Japan - Družbeni stiki in zabava - 02 Mar 2019 02:33 - 0

ほとけのちえは、ちえとしてさいこうのちえである。
なぜなら、たりないものがない、かけたところがない。
そこで、ひとのちえは、すべてまよいであると、とく。
なぜなら、あらそいをなくせず、よくをしょうじて、
じぶんじしんがちゅうしんであり、じぶんがえこうす
るちえであるから。ひとのにんじょうも、どうじょう
も、じぶんのかんじょうをはなれず、そのとき、その
ばかぎりで、じょうきょうにおうじていっかんせず。
なぜ、ほとけのちえは、さいこうであるか。これは、
まよいにたいして、すべてのまよいをあきらかにする
ためにかけたところがなく、したがって、すべてのま
よいをはらすはたらきがある。ひとのまよいは、つぎ
つぎと、そのこころにうまれるが、ことごとくこれを
はらす。そのようにしんじるところから、だいじひの
こころとして、ほとけのおしえをまなぶ。
まなびて、かんがえれば、かならずまよいははれて、
じぶんじしんのぜんと、あくのくべつを、ただすこと
ができる。まよいは、これをまよいとしてじかくする
ところに、おしえがじぶんのりょうかいとして、もつ
ことができる。

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