弐蜂

Shogo - Časopis iz Japan -

Objavljen v Japan - Družbeni stiki in zabava - 03 Mar 2019 14:44 - 0

じんせいには、しんじることはどういうことであるかを
まなぶことが、ひじょうにおおきないみをもつ。
ここから、こころが、なんであるかをかんがえることが
できる。つまりは、こころのそんざいをたしかめること
につながる。なにものにも、こころがあることを、かん
じることができて、ほんとうのかんけいをつくってゆけ
る。なぜなら、こころは、こころにたいしてかよいあう
もの。これが、あいてをしんじるということ。また、そ
こには、ほとけのつながりをかんけいとした、ほんとう
のにんげんかんけいがある。まずは、みずからが、ここ
ろで、しんじるところからはじまる。たしかに、うたが
いや、あやまちは、さけがたい。だからこそ、しんじる
ということをまなんで、そのうえで、みずからかんがえ
て、あやまちをこえてゆける。ほとけのおしえが、その
おしえのとおりに、たしかに、しんじることをおしえて
いるということを、うけとめて、まずは、それを、その
とおりにしんじてみるところからはじまる。このまなび
が、ほんものであるかどうかを、じぶんじしんで、たし
かめてゆく。じぶんのはんだんをよりどころとして、う
たがうべきや、あやまちのおこりうることを、おそれる
ひつようはなく、むしろこれにのぞんですすみゆくこと
が、じんせいであり、まえむきないきかたである。これ
は、とうぜんながらひとには、しょうらいがあることを
しんじることとおなじ。しょうらいをしんじて、みらい
へとむかうことである。ぜひ、しんじるべきであるとの
おしえをうけとめてみよう。ほとけをしんじるならば、
そのこころは、ほかのなにをしんじても、うたがいや、
まよいを、おそれるひつようがないことをわかるとおも
う。また、これを、だれもが、そのこころにみずからの
うけとめとすることをねがって、ほとけのおしえがある。

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