Objavljen v Japan - Družbeni stiki in zabava - 13 Mar 2019 05:26 - 0
ほうりつは、くにのあんぜんをさだめ、これにはんするものをさばく。
けいさつは、しゃかいのあんぜんをまもるために、きけんなものをつ
かまえる。
ほうりつでは、ひとをつかまえることは、できない。つまり、じさつ
しゃを、つかまえることはできないし、これをつかまえるためのほう
りつは、できない。つまり、じぶんで、じぶんをさばくものをさばけ
ない。けいさつは、しゃかいのあんぜんのために、このいちいんであ
るだれかが、そのみをきずつけることにたいして、まもることができ
る。まず、けんじゅうをとりしまる。そして、だれでも、こまってい
るひとのそうだんをうける。さらに、そのかいけつまでを、あんない
することができる。
それでも、じさつしゃがでるのは、こころのもんだいであるから。こ
ころは、まよいのくのうのなかで、じこじしんのかいけつをもとめて、
じぶんのじんせいそのものを、おわらせようとする。すべてをおわら
せて、くのうもきえるというかんがえが、こころをしはいする。この
くなんのために、おてらがある。
おてらでは、けんかや、あらそいをおさめるために、かちまけのこだ
わりをすてる。そこで、たがいのたちばのもくてきをあきらかにして、
たがいが、あいてのたちばをりかいする。そして、かちまけではなく、
たいわによって、のぞましいけっかをかくにんする。じさつをのぞむ
ならば、まず、じぶんのたちばから、じぶんをみて、おもいこみから
はなれて、かんがえるこころをとりもどす。これは、じぶんがきゃっ
かんてきに、じぶんをみるたちばにたつ。ここで、りせいがはたらく。
りせいは、じぶんじしんとのたたかいにおいて、ただしいたたかいか
たが、あることをまなぶ。つまり、じさつというけっかにいたるたた
かいかたではなく、いきてじぶんにまけないたたかいをえらぶ。
わがみひとつをすてさるよりも、ほとけにみをささげて、しんじるこ
ころにていきる。じんせいは、もとより、しぬことも、いきることも、
ほとけのちからにて、すくわれるしあわせがある。
みずから、じぶんをさばくのではなくて、ほとけのねがいにいきるこ
と。もとより、じりきむこうは、むしろ、さとりであり、じぶんとむ
きあうことは、しゅぎょうである。なにも、はじではない。これこそ、
じんせいのおうじょうを、さとるきえんである。
じょうどにも、ほうがある。ひとに、りつがある。かいをさずかれば、
そうりょである。これは、せいしんせかいのかんせいしたおしえ。ほ
とけとは、このちゅうしんとして、じこじしんをみちびく。じこじし
んは、ここに、じぶんいがいのちゅうしんをいだく。
きゅうさいとはまさに、いたるべきとうぜんのじじつ。これをもとめ
ることは、じぶんじしんが、まよいからめざめることである。じぶん
をくのうからすくうために、すべてのひとのくのうをすくうみちをひ
らいたほとけのおしえを、しんじてもとめて、いきるばかりが、おう
じょうなり。よのなかに、ぼんのうのくのうを、はらすために、ただ
しょうみょうねんぶつをそのみにいただくだけで、ほとけのりやくは
はたされる。まっぽうのよに、ほとけのみょうごうはすでにひろまり
みちて、わがみひとつのへいわをじんせいにいきるものなり。
けいさつは、しゃかいのあんぜんをまもるために、きけんなものをつ
かまえる。
ほうりつでは、ひとをつかまえることは、できない。つまり、じさつ
しゃを、つかまえることはできないし、これをつかまえるためのほう
りつは、できない。つまり、じぶんで、じぶんをさばくものをさばけ
ない。けいさつは、しゃかいのあんぜんのために、このいちいんであ
るだれかが、そのみをきずつけることにたいして、まもることができ
る。まず、けんじゅうをとりしまる。そして、だれでも、こまってい
るひとのそうだんをうける。さらに、そのかいけつまでを、あんない
することができる。
それでも、じさつしゃがでるのは、こころのもんだいであるから。こ
ころは、まよいのくのうのなかで、じこじしんのかいけつをもとめて、
じぶんのじんせいそのものを、おわらせようとする。すべてをおわら
せて、くのうもきえるというかんがえが、こころをしはいする。この
くなんのために、おてらがある。
おてらでは、けんかや、あらそいをおさめるために、かちまけのこだ
わりをすてる。そこで、たがいのたちばのもくてきをあきらかにして、
たがいが、あいてのたちばをりかいする。そして、かちまけではなく、
たいわによって、のぞましいけっかをかくにんする。じさつをのぞむ
ならば、まず、じぶんのたちばから、じぶんをみて、おもいこみから
はなれて、かんがえるこころをとりもどす。これは、じぶんがきゃっ
かんてきに、じぶんをみるたちばにたつ。ここで、りせいがはたらく。
りせいは、じぶんじしんとのたたかいにおいて、ただしいたたかいか
たが、あることをまなぶ。つまり、じさつというけっかにいたるたた
かいかたではなく、いきてじぶんにまけないたたかいをえらぶ。
わがみひとつをすてさるよりも、ほとけにみをささげて、しんじるこ
ころにていきる。じんせいは、もとより、しぬことも、いきることも、
ほとけのちからにて、すくわれるしあわせがある。
みずから、じぶんをさばくのではなくて、ほとけのねがいにいきるこ
と。もとより、じりきむこうは、むしろ、さとりであり、じぶんとむ
きあうことは、しゅぎょうである。なにも、はじではない。これこそ、
じんせいのおうじょうを、さとるきえんである。
じょうどにも、ほうがある。ひとに、りつがある。かいをさずかれば、
そうりょである。これは、せいしんせかいのかんせいしたおしえ。ほ
とけとは、このちゅうしんとして、じこじしんをみちびく。じこじし
んは、ここに、じぶんいがいのちゅうしんをいだく。
きゅうさいとはまさに、いたるべきとうぜんのじじつ。これをもとめ
ることは、じぶんじしんが、まよいからめざめることである。じぶん
をくのうからすくうために、すべてのひとのくのうをすくうみちをひ
らいたほとけのおしえを、しんじてもとめて、いきるばかりが、おう
じょうなり。よのなかに、ぼんのうのくのうを、はらすために、ただ
しょうみょうねんぶつをそのみにいただくだけで、ほとけのりやくは
はたされる。まっぽうのよに、ほとけのみょうごうはすでにひろまり
みちて、わがみひとつのへいわをじんせいにいきるものなり。
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