Опубліковано в державі Japan - Соціальна взаємодія та розваги - 01 Feb 2019 03:49 - 0
かっこうを、つけるだけのことが、とろうであるとわかるころ、
じぶんらしさにいきるところに、のぞみがある。
たにんへめいわくをかけて、けっきょくさいごに、こまることに
なるのは、じぶんじしん。これはけっして、こじつけじゃなくて、
ものごとのどうり。
あらゆるかちかんや、せかいかんがあるが、じぶんはこのよで、
じぶんだけ。じぶんは、じぶんひとり。なんのためのじぶんなの
か、だれのためのじんせいか?いきることは、けっきょくさいご
のさいごで、じぶんのもんだい。じぶんのために、じぶんがなっ
とくできるこたえを、じぶんでみつけて、これをさいごまで、じ
ぶんらしさとして、つらぬくいがいにない。
かざりたてて、えらくふるまい、うまくやってのけるならば、そ
こにはかならず、たしゃのがまんがある。じぶんだけのちからで、
うまくやるものはひとりもいない。たしゃのがまんのなかで、う
まくやるものがいるだけ。
それが、やがてかならず、じぶんじしんががまんするときがくる。
このときに、たしゃのたすけがなくて、のりこえるものはいない。
にんげんばらば、いつか、どこかで、かならず、どうすることも
できないようなげんじつに、ちょくめんするときがくるが、この
ときこそが、じぶんがためされるうんめいのとき。
しんじるこころがあるか、ないか?はたして、いきるちからが、
ほんものか、どうか?
けっして、ちからおよばぬときに、かみやほとけがたすけるので
はない。ふだんからのじぶんのしんこうしんが、いざというとき
のみずからをすくう。
ひとは、いきるために、そのもくてきのために、ちからがおよば
ぬそんざいである。これを「じりきむこう」という。けっして、
たにんごとにあらず。ひとは、かみやほとけのようなそんざいで
はなく、つねにささえあっていきるそんざい。このじかくがない
ものは、たしゃのがまんをしいる。じかくあるものは、がまんを
えらぶ。これは、ひとのしゃかいを、まもるためである。
しんじるということはつまり、じぶんのちからや、のうりょくを
こえたそんざいをたよりにして、こころのよりどころとすること。
これが、ばんみんのしんじるたいしょうについて、しんじつであ
るとするのが、しゅうきょうのたちば。
このほしにいきるそんざいのために、このほしには、ひつような
すべてのものがあるが、じぶんひとりでいきることができるもの
はいない。じぶんひとりで、そのしんこうしんが、いきるちから
としてはたらく。つまり、ときにたえがたきがまんをうけとめる
ゆうきとなり、たしゃのためにがまんして、じぶんのためにいき
ることをえらぶ。
じぶんだけのつごうをとおすものとして、いかなるがまんをうけ
とめることができるかは、けっしてここに、げんかいはなく、す
べて、しんじるこころのつよさにあらわれる。これを、さまたげ
るものは、いつもかならず、じぶんじしんのあさはかな、かんが
えかたである。
どんなかんがえかたについても、これが、しんじるこころをうわ
まわるほどのがまんにはならない。
このほしのすべてを、てにいれるものはおらず、じんせいのうん
めいは、ひとつのみちとして、これいじょうに、よくばることは
できず、だがしかし、しんじるこころのちからは、しんぶつのお
しえにより、びょうどうにひとびとにあたえられるところ。これ
をこえるひつようもなく、こえるりゆうもない。いきるりゆうが
あれば、これがじぶんらしさであり、いきるために、たにんをこ
えるひつようすらもない。
ときに、たえがたきをたえるために、しんじるこころがあれば、
それでいきてゆける。このじぶんらしさが、はたしてほんとうに、
ほんものかどうか、これをまちがえてこまるのは、けっきょく、
じぶんじしんである。
だれもがみな、いきることをゆるされて、いきている。じぶんの
がまんをうけいれるものとして、たがいにゆるしあうことができ
る。したがって、しゃかいには、ゆるしあえるものどうしのみら
いがある。おなじみらいがあれば、じりきのむりょくは、たすけ
あうことのひつぜんせいをあらわす。むしろ、じりきむこうをさ
とることで、ほんとうのにんげんらしさにめざめるものである。
じぶんらしさにいきるところに、のぞみがある。
たにんへめいわくをかけて、けっきょくさいごに、こまることに
なるのは、じぶんじしん。これはけっして、こじつけじゃなくて、
ものごとのどうり。
あらゆるかちかんや、せかいかんがあるが、じぶんはこのよで、
じぶんだけ。じぶんは、じぶんひとり。なんのためのじぶんなの
か、だれのためのじんせいか?いきることは、けっきょくさいご
のさいごで、じぶんのもんだい。じぶんのために、じぶんがなっ
とくできるこたえを、じぶんでみつけて、これをさいごまで、じ
ぶんらしさとして、つらぬくいがいにない。
かざりたてて、えらくふるまい、うまくやってのけるならば、そ
こにはかならず、たしゃのがまんがある。じぶんだけのちからで、
うまくやるものはひとりもいない。たしゃのがまんのなかで、う
まくやるものがいるだけ。
それが、やがてかならず、じぶんじしんががまんするときがくる。
このときに、たしゃのたすけがなくて、のりこえるものはいない。
にんげんばらば、いつか、どこかで、かならず、どうすることも
できないようなげんじつに、ちょくめんするときがくるが、この
ときこそが、じぶんがためされるうんめいのとき。
しんじるこころがあるか、ないか?はたして、いきるちからが、
ほんものか、どうか?
けっして、ちからおよばぬときに、かみやほとけがたすけるので
はない。ふだんからのじぶんのしんこうしんが、いざというとき
のみずからをすくう。
ひとは、いきるために、そのもくてきのために、ちからがおよば
ぬそんざいである。これを「じりきむこう」という。けっして、
たにんごとにあらず。ひとは、かみやほとけのようなそんざいで
はなく、つねにささえあっていきるそんざい。このじかくがない
ものは、たしゃのがまんをしいる。じかくあるものは、がまんを
えらぶ。これは、ひとのしゃかいを、まもるためである。
しんじるということはつまり、じぶんのちからや、のうりょくを
こえたそんざいをたよりにして、こころのよりどころとすること。
これが、ばんみんのしんじるたいしょうについて、しんじつであ
るとするのが、しゅうきょうのたちば。
このほしにいきるそんざいのために、このほしには、ひつような
すべてのものがあるが、じぶんひとりでいきることができるもの
はいない。じぶんひとりで、そのしんこうしんが、いきるちから
としてはたらく。つまり、ときにたえがたきがまんをうけとめる
ゆうきとなり、たしゃのためにがまんして、じぶんのためにいき
ることをえらぶ。
じぶんだけのつごうをとおすものとして、いかなるがまんをうけ
とめることができるかは、けっしてここに、げんかいはなく、す
べて、しんじるこころのつよさにあらわれる。これを、さまたげ
るものは、いつもかならず、じぶんじしんのあさはかな、かんが
えかたである。
どんなかんがえかたについても、これが、しんじるこころをうわ
まわるほどのがまんにはならない。
このほしのすべてを、てにいれるものはおらず、じんせいのうん
めいは、ひとつのみちとして、これいじょうに、よくばることは
できず、だがしかし、しんじるこころのちからは、しんぶつのお
しえにより、びょうどうにひとびとにあたえられるところ。これ
をこえるひつようもなく、こえるりゆうもない。いきるりゆうが
あれば、これがじぶんらしさであり、いきるために、たにんをこ
えるひつようすらもない。
ときに、たえがたきをたえるために、しんじるこころがあれば、
それでいきてゆける。このじぶんらしさが、はたしてほんとうに、
ほんものかどうか、これをまちがえてこまるのは、けっきょく、
じぶんじしんである。
だれもがみな、いきることをゆるされて、いきている。じぶんの
がまんをうけいれるものとして、たがいにゆるしあうことができ
る。したがって、しゃかいには、ゆるしあえるものどうしのみら
いがある。おなじみらいがあれば、じりきのむりょくは、たすけ
あうことのひつぜんせいをあらわす。むしろ、じりきむこうをさ
とることで、ほんとうのにんげんらしさにめざめるものである。
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