Опубліковано в державі Japan - Соціальна взаємодія та розваги - 05 Mar 2019 15:30 - 0
わざわいをてんじてふくとなす、とか、あくをてんじてとくとなす、と
いうことが、じつは、ほとけさまのちえのはたらきであるとみるところ
に、ぶっきょうがあるとかんがえるのが、じょうどしんしゅうである。
いっぱんてきに、じぶんのちからや、どりょくのおかげだとおもうこと
だが、にょらいのはたらきによってさずかるごりやくであるとうけとめ
る。しかも、このよにおいてすべてにじつはにょらいえこうのはたらき
があり、じぶんがどりょくしたり、じぶんのさとりをもとめることでも、
にょらいのえこうがあって、そこにこれができるとしてめざめるのが、
たりきのせかい。
じぶんのどりょくしだいだとおもうところに、わざわいとか、あくとか
が、じんせいのさまたげだとかんがえるが、にょらいをしんじるところ
にはかならず、えこうとしてのごりやくをいただき、これをつねにうけ
とめて、おうじょうじょうどのじんせいがさだまる。ほんとうにさずか
るべきふくや、とくが、けっきょくは、じょうどおうじょうのごりやく
であるとめざめるのが、こころのしんじんである。
なにかよいことや、もくひょうのたっせいがあって、おわることではな
く、にょらいのえこうをしんじて、どりょくをつづけるということを、
じんせいのくろうとしてひきうけるところに、にんげんらしさがあると
めざめる。
じぶんでまんぞくできるじんせいには、じぶんじしんがなっとくできる
じぶんのせいちょうがある。からだと、こころのせいちょうは、ほんら
い、いのちのはたらきがうながす。いのちのせかいにめざめ、にんげん
らしさにめざめて、じぶんのつごうでどりょくするよりも、おうじょう
じょうどのじんせいにふさわしいどりょくと、くろうのじんせいをえら
び、かならず、じぶんでなっとくできるせいちょうをもたらすとしんじ
て、どりょくがみちとなる。よくや、めいせいのためではなく、しんじ
んにもとづいてどりょくすれば、いかなるけっかも、なっとくしてうけ
とめるのが、おうじょうのあかしである。おじょうどは、たしかに、い
のちのせかいであるとして、おしえをうけとめるところからはじまる。
いうことが、じつは、ほとけさまのちえのはたらきであるとみるところ
に、ぶっきょうがあるとかんがえるのが、じょうどしんしゅうである。
いっぱんてきに、じぶんのちからや、どりょくのおかげだとおもうこと
だが、にょらいのはたらきによってさずかるごりやくであるとうけとめ
る。しかも、このよにおいてすべてにじつはにょらいえこうのはたらき
があり、じぶんがどりょくしたり、じぶんのさとりをもとめることでも、
にょらいのえこうがあって、そこにこれができるとしてめざめるのが、
たりきのせかい。
じぶんのどりょくしだいだとおもうところに、わざわいとか、あくとか
が、じんせいのさまたげだとかんがえるが、にょらいをしんじるところ
にはかならず、えこうとしてのごりやくをいただき、これをつねにうけ
とめて、おうじょうじょうどのじんせいがさだまる。ほんとうにさずか
るべきふくや、とくが、けっきょくは、じょうどおうじょうのごりやく
であるとめざめるのが、こころのしんじんである。
なにかよいことや、もくひょうのたっせいがあって、おわることではな
く、にょらいのえこうをしんじて、どりょくをつづけるということを、
じんせいのくろうとしてひきうけるところに、にんげんらしさがあると
めざめる。
じぶんでまんぞくできるじんせいには、じぶんじしんがなっとくできる
じぶんのせいちょうがある。からだと、こころのせいちょうは、ほんら
い、いのちのはたらきがうながす。いのちのせかいにめざめ、にんげん
らしさにめざめて、じぶんのつごうでどりょくするよりも、おうじょう
じょうどのじんせいにふさわしいどりょくと、くろうのじんせいをえら
び、かならず、じぶんでなっとくできるせいちょうをもたらすとしんじ
て、どりょくがみちとなる。よくや、めいせいのためではなく、しんじ
んにもとづいてどりょくすれば、いかなるけっかも、なっとくしてうけ
とめるのが、おうじょうのあかしである。おじょうどは、たしかに、い
のちのせかいであるとして、おしえをうけとめるところからはじまる。
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