Опубліковано в державі Japan - Соціальна взаємодія та розваги - 08 Mar 2019 15:30 - 0
いっぱんてきな、ぶっきょうのじょうしきは、ぶつどうにおいて、
もんのそとである。つまり、ぶっきょうにすこしでもおおく、な
れしたしんでもらうためにある。これにて、もんをくぐるという
より、ぶっきょうというそんざいについてひろめ、ぶつもんとい
うかたちの、せけんとはちがうたちばについてしめす。
ぶつどうでいえば、ぶっきょうのいっぱんじょうしきは、どれだ
けねっしんにちしきをふかめても、ぶつもんのそとにかわりない。
だが、ぶつもんをくぐったところに、ほんとうのほとけのおしえ
がある。これは、べんがくと、こうじょうしんが、さとりへいた
るかどうかについて、ぶつどうをあゆむということが、かならず
これをきわめるところにある。すなわち、じぶんじしんをすくい、
たしゃをすくい、よのなかをすくうためのせきにんを、みずから
になうところにある。
これについてかんがえれば、せけんのじょうしきは、すべて、ち
しきとしてみることができる。いっぽうで、ぶっきょうでは、ほ
とけのおしえにてみちをあゆむことは、ほとけのちえをいただく
こと。にんげんとして、「なぜ、そうであるか?」というところ
をかんがえる。しかもここに、「じぶんじしんはどうであるか?」
ということをてらしあわせて、「ほんとうに、どうあるべきか?」
ということを、みずからのうちにみいだす。これは、かんがえな
ければわからない。せけんでは、「たにんは、どうあるべきか?」
をもんだいとする。しかし、ぶっきょうでは、ひとのしゃかいの
きゅうさいをしんじて、「なにが、どうあるべきか」ということ
をさとりのなかにまなび、よくぼうのまよいをはらす。よくは、
すなわち、さらなるよくをしょうじて、まよいをふかめる。ぼん
のうでいえば、ぼんのうでぼんのうをもとめて、さらにぼんのう
をしょうじて、まよいはふかまるばかり。そこで、ほとけのすが
たから、そんざいのしんじつをまなび、ぼんのうにしばられない
にんげんのありかたをかんがえる。つまり、にんげんらしさのあ
るがままのすがたにたちかえり、すくいのみちがあることをまな
び、これをしんじてもとめる。
そこで、せけんには、ちしきとしてのぶっきょうとともに、おね
んぶつがある。おねんぶつにおいて、そうりょも、もんとも、ほ
かのだれでも、おなじにんげんとして、ともに、おねんぶつです
くわれる。そして、てらといえども、けっきょくは、ここのとこ
ろに、すべてがしゅうやくされる。おねんぶつを、ほとけのごり
やくとして、みんなでともにいただくところのせきにんが、そう
りょであるといえる。おねんぶつが、「なぜ、ありがたいのか?」
ということについて、じぶんではどうであるか?ほんとうに、ど
うであるか?ということをとおしてかんがえ、なぜおねんぶつな
のか?ということをみていく。じぶんでかんがえたときに、にん
げんのすくいと、おじょうどのせかいと、じぶんのかんがえかた
が、もんだいとなる。これを、じぶんのたちばでかんがえてみて
いく。ほとけが、すべてのひとびとをすくうということは、ここ
でのすべてのこたえは、せいかいであるということ。しかし、み
ずからかんがえるということが、なによりもじゅうよう。これじ
たいが、みほとけのおみちびきである。
もんのそとである。つまり、ぶっきょうにすこしでもおおく、な
れしたしんでもらうためにある。これにて、もんをくぐるという
より、ぶっきょうというそんざいについてひろめ、ぶつもんとい
うかたちの、せけんとはちがうたちばについてしめす。
ぶつどうでいえば、ぶっきょうのいっぱんじょうしきは、どれだ
けねっしんにちしきをふかめても、ぶつもんのそとにかわりない。
だが、ぶつもんをくぐったところに、ほんとうのほとけのおしえ
がある。これは、べんがくと、こうじょうしんが、さとりへいた
るかどうかについて、ぶつどうをあゆむということが、かならず
これをきわめるところにある。すなわち、じぶんじしんをすくい、
たしゃをすくい、よのなかをすくうためのせきにんを、みずから
になうところにある。
これについてかんがえれば、せけんのじょうしきは、すべて、ち
しきとしてみることができる。いっぽうで、ぶっきょうでは、ほ
とけのおしえにてみちをあゆむことは、ほとけのちえをいただく
こと。にんげんとして、「なぜ、そうであるか?」というところ
をかんがえる。しかもここに、「じぶんじしんはどうであるか?」
ということをてらしあわせて、「ほんとうに、どうあるべきか?」
ということを、みずからのうちにみいだす。これは、かんがえな
ければわからない。せけんでは、「たにんは、どうあるべきか?」
をもんだいとする。しかし、ぶっきょうでは、ひとのしゃかいの
きゅうさいをしんじて、「なにが、どうあるべきか」ということ
をさとりのなかにまなび、よくぼうのまよいをはらす。よくは、
すなわち、さらなるよくをしょうじて、まよいをふかめる。ぼん
のうでいえば、ぼんのうでぼんのうをもとめて、さらにぼんのう
をしょうじて、まよいはふかまるばかり。そこで、ほとけのすが
たから、そんざいのしんじつをまなび、ぼんのうにしばられない
にんげんのありかたをかんがえる。つまり、にんげんらしさのあ
るがままのすがたにたちかえり、すくいのみちがあることをまな
び、これをしんじてもとめる。
そこで、せけんには、ちしきとしてのぶっきょうとともに、おね
んぶつがある。おねんぶつにおいて、そうりょも、もんとも、ほ
かのだれでも、おなじにんげんとして、ともに、おねんぶつです
くわれる。そして、てらといえども、けっきょくは、ここのとこ
ろに、すべてがしゅうやくされる。おねんぶつを、ほとけのごり
やくとして、みんなでともにいただくところのせきにんが、そう
りょであるといえる。おねんぶつが、「なぜ、ありがたいのか?」
ということについて、じぶんではどうであるか?ほんとうに、ど
うであるか?ということをとおしてかんがえ、なぜおねんぶつな
のか?ということをみていく。じぶんでかんがえたときに、にん
げんのすくいと、おじょうどのせかいと、じぶんのかんがえかた
が、もんだいとなる。これを、じぶんのたちばでかんがえてみて
いく。ほとけが、すべてのひとびとをすくうということは、ここ
でのすべてのこたえは、せいかいであるということ。しかし、み
ずからかんがえるということが、なによりもじゅうよう。これじ
たいが、みほとけのおみちびきである。
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